最近考えていること 自分の言葉

はろー、はろー、はろー。

 

1.

皆さんは「自分の言葉で喋ろう」と言われたことが子どもの時に1度くらいはあるかと思います。

私はその時は「コピペはやめようってことかな」ぐらいにしか思ってなかったのですが、最近(ここ数ヶ月)はこの"自分の言葉"というものがもう少し深い意味があるように思えてきました。

というよりは、もしかすると最近の私の悩みを一言で表すと「自分の言葉で喋っているか?」だからかもしれないからです。

 

2.

年齢を重ねると言葉遣いは論理的になっていきます。

特に論文を書くときや、公的な文章を書くときは徹底的に個別の感情はボコられますよね。

それは自分の考えや意見をより正確に伝えるためであるからであって、それ自体は良いことです。

 

しかし、いつの間にか"論理的な言葉遣い"と"伝えたい意見"の立場が逆転し、何か発言するときに自分の意見がどうこうよりも、その文が最もらしく見えるかを意識するになることがあります。

このそれっぽい言動に矯正してしまう感覚が最近特に実感覚としてあり、それが冒頭の「自分の言葉で喋っているか?」という悩みに繋がっている訳です。

皆さんの周りにも、多方面に対して何かそれっぽいこと言ってるけど結局伝えたいことは何なんだろうか……?と思わずにはいられない人はいないでしょうか。

例えば、炎上した人に「この人は"承認欲求"が云々……」と言ってみたりとか、話の最後が「まぁ人それぞれ」な人たち。(人それぞれは前提であって帰結ではない。)

こうしたどこかで見たような言葉の切り貼りで喋ることは、自分の言葉じゃないし既にあるフレーズを引き出しているだけなので、条件反射的に書けますし指摘されても自分へのダメージが少ないです。

しかも一見それっぽいので、さも真剣に考えているかのように見えます。

これは言葉の最もらしさが凄いのであって発言者が凄いのではありません。

 

3.

2の文章をまとめると、人間本性の知への態度として「未知への恐怖」と「既知への怠惰」があると思います。

ここ偏見なので流し読みで良いですが、音楽家が自伝本を出すと急に音楽から面白味がなくなると思っているのですが、これは自分にとって音楽とはこういうものだと一度言葉にしてしまうと、その最もらしい言葉に縛られてしまうというのがあると思うのです。

 

曖昧なものを曖昧なまま、不可解なものを不可解なまま、あるがままに受け入れることがいかに難しいかは推して知るべしで、何かこれ一つですべてを説明できる"真理"のようなものをついつい求めてしまいます。

ですが結局のところどれだけ客観的に振舞おうとしても、人生は無根拠で無目的な決断を迫られることの連続で、個人としては偏見かつ粗暴にしか生きられないのが宿命です。

自己と対峙して自分の偏見と粗暴さを受け入れる。

実から出た錆で生きて、実から出た錆すら可愛がるように生きるのが悔いが少ないのではと、それっぽい締めで終わります。

地理よわよわ人間

はろー、はろー、はろー。

 

気温も落ち着いてきて夜風が気持ち良くなってきましたが、いよいよ夏も終わっちゃったって感じがしてしんみりしてきますね。

 

さてさて皆さんはこの夏どこか旅行に行きましたでしょうか!

私はインドア特化型人間なので自分から旅行に行くことはないのですが、昔から旅行に誘われる機会はそれなりにあったので、今年もボチボチ遠出した夏でした。

とはいえ旅行自体に興味が無さすぎるので、何県に行ったかすら曖昧になることがしばしばあります。

もっと言えば、友達と写真見返した時に「えっ、こんなとこ行ったっけ……」となったりすることも多々あるし、旅行の時の思い出が90%ぐらい吹き飛んでるので、実質記憶喪失状態です。

主人公でみたいでカッコイイですよね(カッコよくない)。

 

ただこれは旅行に限らず昔からのことで、地名を覚えるのも苦手だったし、勉強でも地理は大苦手でした。

なので私の知る限りの大体の人は、地元なら地名言えば「あ~、あそこは○○で▽▽だよね~」ってすぐ言うことができるのが凄すぎて、どんな違法行為に手を染めたらそんなに地元知識を得ることができるのか気になっちゃいますね。

まぁ私は生まれたときから意識がV A L H A L L A にあったので、多少地上のことに疎くても仕方ないといえば仕方ないですね。

 

引き換えにといえば何ですが、お喋りした内容とかは割と記憶してて(大体は友達の黒歴史を掘り起こして恥ずかしがらせるために利用される)、多分旅行してる時も友達とお喋りする時間が好きで、旅行自体の記憶がすっ飛んでるかもしれないですね。

そういうことにしておきましょう、その方が良い話っぽく終われるので。

 

皆さんも自分の弱みを良い話っぽくなるようドンドン捏造していきましょう!

そうすることで自分を晒けだすことへの抵抗感がちょっぴり減ります!

あの頃

はろー、はろー、はろー。

 

皆さんの"あの頃"はどんなものでしたか?

あの頃とは私の世代でいうと「鳥の詩」や「you」や「アンインストール」などを聞くと否応なく想起してしまうあの頃です。

もっと一般的にいうと、無謀な夢や壮大すぎる世界を内に秘めていた無邪気な時代のことです。

 

あの頃を過ごしていた時は子どもで、何も力が無くて、そうした大きなコトを語るぐらいでしか自己を確立できなかったかもしれません。そして、周りも同じような人達ばかりだったので無条件に無反省に話せていたのでしょう。

そして年を取るにつれて、多くの人と対等に関わり合うことで自分の能力や性格を客観的に認識して、自分という存在がちっぽけなものであるということを自覚するのに加えて、そんな自分でも割と生きていけることも知り、あの頃の世界は不必要となり忘却されていきます。

SNSを更新しなくなった友達は私より遥かに忙しい世界を過ごしていて、あの頃なんか思い出している暇も無いでしょう。

いつしか同窓会で友達と、お盆や年末年始で家族とあって、そういう時にだけ「あの頃は若かった」と話のネタとして消化されるぐらいにまで成り下がるまでになります。

 

もちろんあの頃を過去のモノにせずに引きずって、今と共に生きた方が良いとは限りません。

ですが久しぶりに会った友達があの頃を語るときの顔はあまりにも寂しそうでした。

モノを作る皆さんは探求心や達成感や名誉欲だけでなく、あの頃の夢や世界を実現させたいという気持ちがあるのではないでしょうか。

それは、あの頃の自分が成し得なかったことを成すために、あの頃の自分を喜ばせるために、せめて今だけは「あの頃は若かった」と思い返される側にいたいために。

 

 

あとがき

何かなんとなくで始まって、なんとなくで終わっちゃったんですけど、確か悩んでいる友達へのエール文みたいな感じで書こうと思ってたんですよね~~

三つ子の魂百ではないですけど、やっぱ思春期時代(あの頃)ってのは一生付きまとうと思っていて、人生の舵取りする上での重要な要素もそこにあるかなと思って、こういうタイトルにしたんだったと思います。(いま考えるとそこまで思春期に影響されているの私ぐらいでは?って気もした)

ただ別にあの頃と向き合えとか夢を諦めるなとか言いたいんじゃなくて(本文だとそんな感じのまとめ方ですが)、あの頃をポジティブに思い出すことで、その時の個別的かつ無条件な情熱も再燃して前向きにモノごとを考えらえるんじゃないの~~ぐらいの軽いノリだったんですけど、書いてるこっちがアイチチチチってダメージ負うぐらいの記事になりました。

何かすいやせんw(誠意が感じられない謝罪)

夏という季節

はろー、はろー、はろー。

 

太陽が調子付きやがりまして、すでに真夏となっていますね。

熱中症に気を付けながら夏を過ごしてくださいね。

 

夏という季節、私は汗をかきたくないので夏の暑さは苦手だし、超絶インドア生命体なのでプールも海も山も楽しめたものじゃないですが、不思議と夏そのものは苦手じゃないです。

むしろ私の人生で大きな決断をしてきたのは夏に集中しているので(Twitterの活動も昨年の晩夏からスタートしてますし!)、精神は一年で一番昂っているのかもしれません。

 

なぜ夏が昂るのかと考えたとき、それは夏には『身体』があふれているからでしょうか。

蚊やセミという多くの他の『身体』の声や形だけでなく、植栽の豊かな色彩や太陽のカンカン照り、それらはどうしようもなく私の『身体』を、自覚させてくるのです。

 

私はファンタジーや哲学が好きな、典型的な空想人間のため精神一つでこの世のことを見ていたいし、見ている気になっていることも少なくないのですが、

夏は、私の精神だけでは世界というものが存在せず、私にも当然として『身体』はあり、また『身体』同士の繋がりが世界の大きな一つの様態であるということを、まざまざと自覚せざるを得ない季節なのです。

 

そういうわけで、今年の夏もまた私の精神は身体を自覚し、結合し、何か大きな決断をしてしまうのでしょうか?

 

 

意図せず呪物をつくってしまった話

はろー、はろー、はろー。

 

小学生5年生のときは北欧神話に一番ドハマりしていた時期なわけですが、
とりわけお気に入りだった神がオーディンでした。

特に知識を得るために自分の体を槍で貫いて木に9日間吊るされるというエピソードが大好きで、賢くなるためにそんなおバカみたいなことしてるっていうギャップが面白くてイイですよね。

 

そんな訳で私も同類だったので「オーディンの真似がしたい!」と思ったので試してみようと考えました。
もちろんおバカの私でも自分の体でやったら天国行き確定なことぐらいわかっていたので(自尊心高め)、自分の写真で代用することにしました。

私の上半身をぺらっぺらの紙に印刷し心臓部を鉛筆で貫いたものを、近くの山にいって木に吊るしました(徒歩2分)。完璧ですね。

しかし一つ誤算だったのが、風に揺られて鉛筆を挿していたところから破けてしまったんですよね。
ここで普通の人間ならセロテープでもつけて補強しようと考えると思うのですが、おバカだったので文字通りの人海戦術で20枚ぐらいの『私』を用意して木に吊るしました。

 

「これで1人ぐらいは生き残るだろう。」と万全な準備を出来たことにふへへと笑いながら(満足感で満たされている時にでる気色悪い笑い)9日経つのを持ち望んでいたのですが、―――

 

3,4日目ぐらいに近くに住む友達が「らぷすちゃん……言いづらいことがあるんだけど……」と何やら神妙な顔をしながらお家にやってきました。
その瞬間に"アレ"がバレたことを悟り「いやこれ客観的に見たら現代版五寸釘じゃん」と冷静になり、今わたしが「この現代に呪いをかけられようとしている可哀想な人間」扱いされていることまで察することが出来ました。

わざわざこんな面倒なことする人いないだろとは思いつつ、実際に存在してる以上これが学校にまで広まったら「呪術をかけられた奴」or「北欧神話にハマって痛いことする奴」のどちらかの業を背負って生きるはめになるので、何とか友達を説得してここだけの話にしてもらいました。

 

ちなみにこの話は墓場まで持っていく予定なので、その友達の中では今でも呪術が身近に存在しているものだと思っているかもしれないです。可哀想に(他人事)。
皆さんも一時の勢いで変なことはしないようにしましょうね。

ダイモニオン、理性、インドアな私

はろー、はろー、はろー。

 

ソクラテスは主として禁止する形で内面に現れる啓示を神霊《ダイモニオン》と呼びました。

時代は飛んで、カントは道徳的な義務や抑制を"理性"の属性の1つとして定義し、『実践理性批判』では、みんなの理性はア・プリオリ(生まれたときから)にあるものだから、共同体に合わせてしっかり制御していこうねということを語りました。これは、ソクラテスのダイモニオンを普遍的なもの(というより民主主義的に決定されるものという方が近いかもしれません。)へとカントが昇華したものではないでしょうか。

 

そんな話はさておき私のダイモニちゃんは非常に強力で、主にアウトドアでその力を発揮してきます。

象徴的な出来事は数年前に一泊二日のスキーにいったことがあるのですが、一日目では行きの車内からテンション全開で友達に「スキーで大喜利しよwwww」とダル絡みしていたし、スキー場に着いたら着いたらでその白銀の世界に感動し「また来たいね!」と連れてきてくれた友達に感謝した記憶があります。が、

二日目になった途端に「なにこれ。ただ白いだけやん。」と急にシラけてしまいリフトで登ったところのハジっこで一切滑らずにずっと雪の上で大の字になって横たわっていました。(ふかふかの雪に寝そべり、肉眼で見えるほどゆったりと落ちる雪を捉えるのは、時間の流れが遅く感じられるので意外と楽しかった)

一緒にいった友達がリフトから上がってくるたびに雪玉を作っては投げてくるのが鬱陶しかったですが、なんやかんやこうした形で話せるエピソードの1つになったので良かった説はありますね。

ちなみにこれを切欠に、旅行するにしても日帰り旅行しか出来ない体ということを自覚しました。(インドアの鑑)

宗教トリリンガル

はろー、はろー、はろー。

 

私の家族の話をしますが、父の家系は仏教を信仰していて、母の家系はキリスト教プロテスタント)を信仰していました、今でも何故この二人が結婚することになったのかは七不思議の1つです。

そして実家は二階建てで、一階にいるとスピーカーからゴスペルが流れてくるし、二階にいると外からお経が聞こえてくる(お隣がお寺)という家庭環境で育てられてきました。変な人たちですね。

 

そんな中で育った私は宗教嫌いで、まぁ普通に考えて二つの思想が家庭内で対立してる時点で、どちらにも真理はないと思ってしまうのは無理もない話ですね。

ただ隣で神だ何だの言ってる人間がいるおかげかせいかはわかりませんが、ファンタジー世界にどっぷりとハマることができて、特に北欧神話は日常的に話題に出すぐらいには調べていた気がします。

 

なぜ北欧神話にハマったか理由はわからないですが、北欧神話のもつ積極性のあるニヒリズムな世界観に惹かれたかもわからないです。

終戦のために何度も生き返りながら戦うのが理想郷(ヴァルハラ)ってのが象徴的ですけど、とにかく実存と勝利が課題で、また面白いのはロキという存在がいるおかげで裏切り即絶対悪の構図を外しているところにあります。

AI的判断やインフルエンサー社会は裏切り行為を最低評価値に置きますから、この構図に疑問をもつ人は是非北欧神話を活用してみてください。

どうやって活用するかはよくわかんないので聞かないでください。

 

 

そういえば歴史上でニーチェという人がいますよね。

彼がキリスト教を真向から批判したというのは良く知られた話ですが、彼の人となりを知れば知るほど彼がキリスト教徒っぽいなと感じることは多いのではないでしょうか。

なぜキリスト教を批判した人間がキリスト教徒らしいのか?

かっこ付けた言い回しをすれば、若くして父親が亡くなったことで、キリスト教の家系だったニーチェにとってオイディプスキリスト教になったのではないでしょうか。誰よりもキリスト教を批判しながらも、キリスト教の血には抗えない、みたいな。

 

 

なんでこんな話を出したかといえば、宗教嫌いといいつつ私ってなんだかんだ結構キリスト教的道徳に染まっているなと自覚することが増えてきたんですよね。

この前小学生がお昼の時間に「いただきます!」って言ってるのを見て、食事を「エネルギー源」「快楽(美味しい)」「情報」の3つの要素にのみ還元してしまってる自分の愚かさを恥じたりしましたが、これはもし私が功利だけを考えている人間であれば起こり得ない現象だなと思ったり。

 

そんなわけでもし私がめちゃくちゃな人間に見えるのだとしたら、私がこうした北欧神話的実利主義とキリスト教的道徳観と仏教的厭世観と開き直りを兼ね備えた宗教トリリンガル(正確には宗教2つと神話ですけど)だということを踏まえれば理解できるかもしれません。